徳川氏が江戸に幕府を置いた時、現在の上野村・神流町(旧万場町・旧中里村)、旧美原村の一部は幕府の天領となり、山中領として27代の代官が支配しました。山中領は上山郷・中山郷・下山郷の三郷に分けられ、黒澤家は代々上山郷の大総代を務めた旧家でした。
当時、上山郷には鷹の保護地区が27か所指定され、毎年、将軍家に「鷹狩り」の巣鷹を献上していました。黒澤家は代々、その御林守として御巣鷹山の管理にも当たりました。
旧黒澤家住宅は、19世紀中頃の建築と考えられ、間口22m、奥行16mの総二階の切妻造り。その規模の大きさや座敷の数、玄関の設備など、当時の旧家の面影をよくあらわしています。
昭和45年、国指定重要文化財に指定されました。
住所 | 上野村楢原 MAP | ||
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電話番号 | 0274-59-2657(教育委員会) | ||
開館時間 | 午前9時~午後4時 | ||
休館日 | 水曜日(祝日の場合は翌日) | ||
観覧料金 | 大人 | 個人 300円 | 団体(20名以上) 200円 |
小・中学生 | 個人 100円 | 団体(20名以上) 80円 |
いろりのある「ちゃのま」は31畳半もあり、1部の天井が吹き抜けになっています。主人の座る席の後ろには大きな神棚があります。普通の神棚は神社の形をしていますが、まるで城郭のような豪華な神棚です。
「ちゃのま」の周囲に「主人部屋」「女部屋」「きゃくま」「なんど」などの家族の居室が配置されています。
建物の南側には、3つの玄関があります。手前にある「大戸口」は「だいどこ」と呼ばれる土間に通じる勝手口で、日常的にはここを使用していました。真ん中にある「むらげんかん」は村の行事の時などに使用していました。一番奥の「式台」と呼ばれる玄関は、特別のお客様を迎えるための玄関で、「おしらす」と呼ぶ玄関の間が続いています。
黒澤家の果たした役割の重要性をうかがわせるのが、西側に一列に並んでいる4つの座敷です。幕府の代官等がこの地を訪れたときに使用され、「上段の間」「中段の間」「中の間」「休憩の間」が整然と並び、部屋の外には畳敷きの廊下が延びています。「上段の間」と「中段の間」の境にある欄間は、両面の絵柄が異なるなど、隅々にきめ細やかな意匠がほどこされています。
深い山の中のため、屋根には割れやすい瓦ではなく、水に強く簡単に手に入る栗の木を使っていました。長さ1尺(約30㎝)厚さ2分(約6㎜)の栗の割板を並べ、強風で飛ばされないように石が置かれました。展示されている住宅の屋根には、栗板約1100束、押さえの石3400個が使用されています。
二階は仕切りのない広い板の間で、養蚕のために使われていました。あちこちに炉をつくったり養蚕火鉢をおいて部屋をあたためました。現在は上野村の「衣・食・住」および「生産・生業」を、養蚕・機織り・紙漉き・生活(畑仕事・炭焼き等)に分けて民具などを展示してあります。
水田に恵まれない山間地にあっては養蚕による収入の割合は高く、上野村では楮畑に次いで桑畑がひろい面積を占めていました。
養蚕が行われる地域では、機織りは女性が身に付けなければならない技術でした。太織といって、屑繭を自家製糸し、地機(じばた)にかけて一本一本手織りしました。
上野村は楮(こうぞ)栽培の適地として、中世初期より楮を原料とした和紙の生産がさかんでした。障子紙や写書に使われた延紙(のべがみ)、養蚕等に使われた蚕紙(かいこがみ)の二種類が漉かれていました。